錯乱のニューヨーク レムコールハース |
はるか東の街では各種デザイン祭で盛り上がってる最中かと思いますが,今年はスケジュールの都合もあってここ高山に大人しく引き籠もってることにしました.
ここしばらく陥っていた「何もアイデアが出ない→やる気も出ない」というプチスランプも,今日の課題で収束の兆しが見えたので,刺激の強い街に出るなんて荒療治も必要ないかな,浮いたお金で本でも買おう,という結論に至って今ここにいます.
しかし!
そのプチスランプの最大の原因は何かというと,それもまた本だったりするのがアイロニー.
現代建築界の巨人(事務所の名前OMA=Office for Metropolitan Architectureが由来か)と言われるレムコールハース.僕の生まれる10年も前,1970年の建築家としてはまだ作品もないような無名時代に出版された,強硬で痛烈な語り口によりマンハッタン建築の歴史を片っ端から批判し尽くすという偏執狂的な怪著.
「建築を志すなら必読」とは言われてるけど,決して建築を志しているわけではない僕みたいな人間が,生半可な覚悟で読んではいけない禁断の書であることもたぶん間違いない.優良な著作というものが,様々なインスピレーションを与え想像力を増幅させ,より豊かな創作の手助けになるものだとしたら,この本はその真逆.頭の中に浮遊する未熟なアイデアの種は次々に叩きつぶされ,気がついたら頭の中は空っぽになっている.何か新しい発想の種を必死になって探しても,それらは既に腐敗して使いものにならない.何も考えられない.何も創れない.
そもそも,デザインは根拠が希薄だ.デザインの血流とも言うべきコンセプトも,その根拠はどこに由来するのか追求が難しい.デザインの骨格とも言うべき諸要件は,最初から「全て満たすこと」なんて放棄されている.
数学や科学がいつもどこでも普遍的に通用している理由の一つに,根拠を極めて厳格に求めていることがある.新しい論文を発表した場合,その論文で「正しいと前提」されている理論が論拠にされていたらその引用元を明記しなくてはならないし,新しい論文で得られた新しい結果は,その論文に書かれた実験方法を別の人が別の場所で真似した場合でも正確に再現されなくちゃならない.あらゆる数学理論はたった数行の「公理」という出発点,究極の根拠が明らかにされているし,物理学はその普遍性を何度も何度も繰り返し実験して確認し,またその普遍性がどこまで普遍なのか,その適用範囲も明記する.だから科学は,(ニュートン物理学から相対性理論に移行したように)ときどき見方が大きく変わることはあっても根本として間違うことがなく,世界中のあらゆる場所で普遍的に通用する.
そして何より,ファッションのように数十年周期で同じことを繰り返すなんてことは絶対にない.
デザインの大きな弱点はそこにあると思う.根拠が求められない,という訳じゃない.「ものが溢れたこの時代に,あえてお前がものづくりする意味は何だ?!」と,逆に強くその根拠を求められる.問題は,その根拠に証明が求められないことだ.それは証明も反証も不可能だということ.
だからそこが,PCM(Paranoid-Critical Method:偏執症的批判方法)の思うつぼだった.偏執症患者は,例えば「自分が監視されている」という妄想を抱くと,テレビの砂嵐を見てもネコが横切っても道の向こうの見知らぬ他人が落ちてた小銭を拾ったのを目撃しても全てその「監視されている」確かな証拠だと信じ,さらに自分の妄想を強化する.PCMではそれを自発的に演じ,自分のアイデアを証明不可能な根拠で塗り固めることによって,あたかもそのアイデアが理路整然とした実現されるべき根拠を持つアイデアのように装おうとする.
こともあろうにレムコールハースは,ニューヨークのマンハッタン建築こそ偉大なる妄想であり,建築家はそれを実現する価値あるものにする大義名分を捏造することに尽力したに過ぎないと論破する.
自分自身のニューヨークを発明する権利を獲得するために,ル・コルビュジエはマンハッタンが「いまだモダンでない」ということの証明を得ようと一五年の歳月を費やす.(P.434)
実用主義という仮面を絶えずかぶり,永遠に新たなる輪廻転生をくり返して同一の潜在意識的テーマを絶え間なく蒸し返すために自発的に健忘症に陥り,そしてより効果的に働きかけるために組織的に意図をぼかす,といったことで成立する原理が,一世代以上存続するようなことなど決してあり得はしないのである.(P.472)
根拠がない.根拠が証明できないデザインは,結局全部自分の妄想で,実現のためには不利な証拠も含めあらゆる事実をその妄想を強化する道具に代えていかなければならないのか.十分に身に覚えのある僕は,その言葉の前に,蛇に睨まれたカエルのようにただ固まることしかできなかった.
この本は一見,マンハッタン島の西洋人が乗り込み植民地化してから現代に至るまでの建築史のように綴られているが,そこで取り上げられているプロジェクトやエピソードには大きな偏りがあることに早いうちから気づく.
想像も付かない規模で創られた夢の国.誰が使うのかさっぱりわからない機能を与えられた摩天楼.それら摩天楼を全て破壊した跡に建つスーパー摩天楼計画.なるほど,きっと世界中のあの街やこの街は,これらのプロジェクトをモデルにしてるんだろうとたびたび思う.けど,数々の写真や図版という決定的な証拠を見せられてもまだそれが事実だったとは信じがたいくらいの「狂気的な」エピソードの数々.それは偏にタイトルに掲げられたニューヨークの錯乱っぷりを見事に彩っていく.
要するに,このニューヨークで一番偏執症的だったのは,レムコールハース自身だったということなのかも.持論を,荒唐無稽な証拠で固める.けど,証明不可能な命題では,いかなる命題も証明することは出来ない.結局この本で得られる重要な結論は,デザインを語るのに証明は必要ないということで,それは僕がこの世界に足を踏み入れたときから既に分かっていたことだったかもしれない.
如何に偏執症的に最もらしい根拠を捏造しようとも,それが実現されるかどうかはまた別の要件も複雑に絡んでくる.それが建築のような規模の大きなものになればなおさらだ.実現できたからといって,良いデザインとは限らない.良いデザインだからといって,実現できるとは限らない.建築デザインでは特にその「評価されたが実現されなかった計画」が数多く存在し,そんなプロジェクトの断片を集めた展示を以前六本木ヒルズで見たことがあるが,そこに展開されていた夢のような世界に本書の雰囲気がとてもよく似ていた.
マンハッタニズムは,喉につかえながらもとうとうル・コルビュジエを呑み込んで消化してしまったのだ.(P.466)
改めて調べてみるまで気づかなかった.
結局マンハッタンには,ル・コルジュジエの建築は何一つ実現しなかったということに.
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2009年12月21日 13:40 | 返信
理解しやすい要約文、ありがとう
読んでみたくなりました
2009年12月21日 13:40 | 返信
コメントありがとうございます。
ずいぶん前の文章でお恥ずかしい限りですが、
これを励みに、より一層、込み入った小難しいレビューを書き綴っていこうかなと思いを固めました(違
良き作品との出会いの一助になれば幸いです。