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人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治 |
むしろ、わからなくなってしまったかもしれない。
でも、きっと、何か確実に、世界を見る目が変わったと思う。
夕焼けや青空に浮かぶ雲を、合理性も定義も一般論も思い出も感情も美観も抜きにして、ただそれを「美しい」と全身全霊を持って受け入れてしまう。そんな世界を前にして、自分が今まで「美しい」と思っていたものが、なんかとたんに、全然別の世界のものになってしまっていた。
プロダクトデザイナーであるならば、当然追求しているのは、美しいものをつくることだと信じていた。けど、夕焼けや青空をあるがままに「美しい」と受け入れるその価値観において、自分たちが努力して創りだしているのはたぶん「美しい」ではない。では、なんなのか? 何てことはない、それはたぶん「カッコいい」や「かわいい」だ。
「カッコいい」はわかりやすい。それは利己的な欲望に直結した、自分と他者との利害関係の認識で生じる感動だという。だから、欲望の薄い、方向性のはっきりしない自分には「カッコいい」はなじみが薄く、「カッコいいの作っといて!」と頼まれてもとまどってしまったけど、それは要するにクライアントの欲望を満足させるものを作れと言う意味であって、だから自分のオリジナリティは引っ込めて要望を聞けるだけ聞いてその通りに作るのが正解と言うこと※。それが「美しい」と次元の違うものであるのは当然だ。
※もちろんクライアントはほとんどの場合、デザイナーの実力を信じた上で「自分の想像を大きく超える、デザイナーのオリジナリティ全開のもの」を要望するので結局個性派発揮しなきゃいけないのだが。
僕はこのところ、少なくとも作品のコピーとしては「美しい」という言葉を使わない。というか、自然と使わないようになっていた。それは、「美しい」は、自分で創りだせるものじゃないと思うから。誰か他の人が、何らかのきっかけでそれを美しいと思うこともあるかもしれない、あって欲しいとは思うが、それは決して自分から押しつけてはいけないものだと思う。押しつけて思わせた「美しい」はきっと偽物だ。「美しい」と感動した理由を後から説明して合点してもらえるのは良いことだが、「美しい」理由を説明しても「ふーん」しか言われないものは、きっとそもそも美しくもなんともないものなんだろう。
※うちの作品集に「美しい」という言葉を見つけたら、若気の至りと思って笑って読み飛ばしてやってください・・・。
合理的なものが「美しい」の本質でないことはわかる。理屈を追求した末にある完全合理には並々ならぬ美しさが宿るが、それを「美しい」と感動させる力は、合理性とは全然別の次元からやってくる。理屈を越えた感動。その世界を認識してしまったからこそこそ、僕はこちらの世界に足を踏み入れた。
でも、僕は一体何を「美しい」と思っていたんだろう。何にそんなに感動していたんだろう。そんな多くの「美しい」という感動を体験した末に、今の自分の生活は、人生は、どれだけ「美しい」ものになっているというのだろう。「美しい」と言われているものをみて、確かにその「美しさ」を理解して、それを求め、集める生き方に「美しい」は宿らなかった。
結局、プロダクトデザイナーとして追求すべきものは「美しい生き方」なんだろう。多くの感動を、「生き方」という作品に応用する。今生きるこの世界に、自分の方法で、創り出していく。その末にそれが「美しい」ものになるように。
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