『スカイ・クロラ』にみる 子供っぽい大人として生きる方法

2008.09.14  

このエントリーをはてなブックマークに追加  

森博嗣 『スカイ・クロラ』 森博嗣 『スカイ・クロラ』
スカイ・クロラ
押井守 監督
スカイ・クロラ
森博嗣

 クローン戦争? あー、SF映画によくあるネタね。

 繰り返される日常。無限ループ。輪廻転生。やっぱり押井ワールドだ!

 そうだね。きっと、5年くらい前に観ていたら、僕もこのあたりに落ち着いていたかもしれない。映画を見終わって、周りの人の感想を聞いてみたりしたけど、案外みんなちゃんと筋書き通りの感想を言い合っていて、そうか、やっぱり映画にはいろんな見方があるんだなと思った。

 登場人物間の暗黙の了解は暗黙として表現する。余計な描写も、説明も、言い訳もしない。
 文庫版巻末に収録された解説で、漫画家の鶴田謙二が自身との共通点として的確に表現していたが、確かに小説「スカイ・クロラ」を読んでその世界にすっとのめり込んでいけたのは、気持ちが良いくらい説明しないからだと思う。現実離れした世界なのに、それを当たり前の事実として提示される。あとは自分の頭の中で、そんな事実がまかり通る世界を構築していけばいい。

 だから、映画はちょっと説明しすぎだなと思った。「ショーとしての戦争」「永遠に生き続ける子供たち」なんてポスターに書いてあることからしてすでに、物語の節々で、原作ではどちらでも選べた道に、レールが敷かれ常に一方へ自動分岐していく。

 書き手は一流のミステリー作家だ。充ち満ちた謎に矛盾や空白があるとは思えない。一度では拾いきれなかった謎の数々も、行間に織り込まれた「暗黙」を凝視したり、まだ5倍の文量を残す原作を読み進めていけば、そういった謎も次第に明らかになってくるかもしれない。そして、そうしてあらかた回収した結果が、映画に反映されているのかもしれない。
 けど、少なくとも僕にとっては、その答えがどうであろうと、もはやどっちでも良かった。それが作者の意図した解釈と違う方へ向かっていたとしても、「深かったり広かったりする作家独自の領域」を素通りすることになったとしても、自分の心に何か深いものを残すことができたなら、「作品との出会い」は成功したんだと思う。そして、そういう作品が「良い作品」になり得るんだと思う。

 「良い作品」に出会えた。
 それだけはまず、自信を持って言いたい。


 つまり、今更弁解も取り繕いも不可能というか必要もないと思っているんだけど、僕は自分自身のことを子供だと思っているし、当たり前のように、別に大人になりたいとも思っていない
 80年代にピーターパンシンドロームとか、90年代にはアダルトチルドレンとか、いつの時代にも似たような人種に適当な名前が付けられてきたけど(その名前を付けるのは「りっぱな大人」の役割だということになっている)、たぶんそれが僕たちの「世代」に与えられた名ではないから、僕は何となく違和感を覚える。けど、今改めて、「あなたはキルドレですか?」と聞かれたら、口を少しだけ開けて、ゆっくりと息を吐いた後、「それもいいかもね」と答えるかもしれない。
 それが何より、僕がこの作品に共感した一番の理由だと思う。

 「あるときから成長をやめてしまう」彼らは、大人にならないという選択に成功したんだと思う。もちろん彼らは生まれたときから「特別」であり、自ら望んでそれを得たわけではないが、その「特別」を得た人の多くはそれに順応することができなかった。だから逆に順応したということは、子供であり続けることを受け入れたということ。それが「大人にならない」ための重要な「選択」だった。

 ところで、大人と子供の違いってなんだろう。

 肉体的差異。精神的差異。
 各個人の経験による、各個人の認識の差異。
 あるいは社会的な立場や責任の差異。
 持てる力とそれを統御する能力の差異。
 経済的自立と精神的自立。
 守られる立場か、守るべき人がいるかどうか。

 世界に対する力はゼロに等しいのに自分が世界の中心だと思いこんでいるか、自分の力の限界を知りながらも確実に世界の一部を動かす力を発揮しているか。

 幸せか、不幸か。孤独か、否か。

 それが何であれ、一方が「理想」であり、一方は「欠陥」だった。だから大人たちは「欠陥」に名前を与え、「理想」へ向かうよう努力を促した。けど、この世界の「子供たち」、自らそうあることを選んだ彼らは、子供だと認められている限り、それは欠陥ではなく、「自然」なこととして自分も周りもなんとなく受け入れてしまえる。そこでは大人の価値観は意味を失い、新しい可能性が芽生えている。

 大人になることを、一つの能力と捉える、そして、子供のままでいることは、その能力の欠如である、と解釈する。そういった考え方に立脚すれば、僕たちみたいな子供を見下すことができる。
 子供のままで死んでいくことは、
 大人になってから老いて死ぬことと、
 どこがどう違うのだろう?

 とにかく、比べようがない、というのが答えだ。誰にも、それは比べることはできない。両方を一人で体験することは不可能だ。

 比べようがない。今のまま生きても、一度限りの僕の人生は、他の誰とも比べようがない。大人になっても。子供のまま生き続けても。

 ただ、僕の過去はわずかではないと思っているし、未来は膨大だとも思わない。
 いつまでも子供のままでいることは、いつの時代も人類の夢だったが、結局僕の場合も、「時間」がそれを許さない。努力して大人になって、それで人生を「成功」に導いた人の物語は多く存在する。逆は、そもそも、物語を残す権利がない。
 「欠陥」を「自然」として受け入れ、認められ、それでもなお大人になる方法は確立されていない。でも、どこかにそれは存在するかもしれない。追求したいのはそんな生き方。

 僕も、僕自身が恐いと思った。
 自分が生きていることが恐い。
 だけど......、
 溜息一つつけば、それも乗り越えられる。
 そういうふうに最初からできていたのだ。
 (......)
 呼吸さえしていれば、死ぬことはない。食べて、寝て、顔を洗い、歯を磨く。それを繰り返すだけで、たったそれだけで、生きていけるのだ。
 何のためでもなく、
 何も望まずに......。

 もう、自分のために生きるのは、飽きた。


 さんざん「説明が多い」と言ってきたのに、実は映画の方がわからない。

 思うに、「似たクセを持つ人とのデジャブ的再会」という設定・演出は、映画版固有のものではないか。そうした経験の短期的な繰り返しという見方は極めて押井らしい。
 戦闘機操縦の才能のみ絶やさないよう身体的特徴と癖は継承するが、記憶はリセットされた人と何度も再会を果たす。どうでもいいひとだったら、それが違う人でも同じ人でも関係ない。けどそれが大切に思う人だったら?また出会いからやり直す?それでまた振り向いてもらえる確証はある?それでもまた確実に結ばれるなら、惹かれ合う理由は、理性や経験よりも以前の、「クセ」に由来するものなのだろうか。

 ちょっと前に流行った「遺伝子が惹かれあう」みたいな考え方よりも、ずっとレトロで自然体で、わかりやすくて大事なポイントだな、と思った(w

SHARE THIS ARTICLE

  • ブログランキング・にほんブログ村へ

RELATIVE ARTICLES

大いなる陰謀

大いなる陰謀

08.12.22

小さな「行動」が世界を変えていく 少なくとも何もしなければ変わらない

空気人形

空気人形

09.10.09

空気人形の目にも 世界はきっと美しく写る

COMMENT AND SHARE

COMMENT

POST A COMMENT

TRACKBACK PINGS

TRACKBACK URL:

http://www.k-en.net/blog3/mt-tb.cgi/4