空気人形 |
ひとつ訊いても良いかな?
キミが見てきた世界は、哀しいものばかりだった?
何か美しいと思うものはなかったかな?
人形作家が、「心」を持った自分の人形に問うた言葉に、うかつにも涙がこぼれた。
ふつう、空気人形が体験する世界は、美しさなんてない、醜いものばかりの世界だから、心を持った空気人形がそれ以外の世界の中に美しさを発見したこと、酷い仕打ちを受けてきた見返りを少しでも得ることができたのか。
そんな確認の言葉だったのか。
あるいは、たとえ性欲処理の代用品、心と向き合えない人のための愛の代用品だったとしても、それだってひとつの「愛」じゃないか。
一方的でも、ねじ曲がっていても、うまく表現できなくても、それをすべて醜いものだと片付けていいのか。もしかしたらそんなもの中にも、そんなものしか見てこなかった空気人形の心にしか見つけられない、本質的な美しさがあるんじゃないか。
そんな切望が込められた言葉なのか。
醜い世界に生を受けたからといって、目を覆いたくなるような、心を塞ぎ込んだり、捨てたくなるような世界に生きなければいけないからといって、心を持っていればきっと、そんな世界にだって美しいものを見つけることができる。心を開きさえすれば、世界は、その美しさの片鱗を見せてくれる。空気人形にだって見つけられたんだから、きっと、誰にだって。
彼女は、どんな美しいものを見つけたんだろう。
何かひとつでも美しいものを見つけてくれてたらいいな、と素直に思った。
それが、きっとこれからを生きる僕たちの希望の種だろうから。
個人的には、人の心は理解も制御も不可能だから面白いんじゃないかと思うけど、だから代用品で満たされない心を慰めている人を見ると何とかしてその「面白い」と僕が勝手に思っている世界に引っ張り込もうとしてしまうけど、もしかしたらそれってホントに、単なる自分勝手のお節介だという可能性も否めない。
狭い意味では、今の一部の「代用品」は既に「代用品でないもの」よりも満足度が高くなっているという事実。そして、広い意味では、人間が創り出すすべてのものは「生きる」という欲望を満たすためのもので、そこには「代用品」と「代用品でないもの」の区別なんて無いんじゃないかと思うこと。
全て認めてしまったらどうだろう? 心がないから立派に役割を果たしていた道具は、心を持ったとたんに欠陥品。壊れたのは道具の方で、道具で愛の欠乏を満たす人の方じゃない。この映画に登場する心を捨てた人たちは、それ以外の人たちに、または自分自身に、その存在を認められてないから苦しんでるだけなんじゃないか。
認めて、苦しまなくなれば、あとは本人の問題だから心があってもなくても望むように生きたら良いんじゃないかな。そこで僕の価値観を押しつけるのは、やっぱりちょっとお節介かもしれない。
心の問題は、最終的には個人的な問題。正解なんて無い。
この映画が幸せな映画なのは、心を持った空気人形は心を持ったことを「良かった」と思えたことで、十分だと思う。
ここ、どこだ? 京都じゃないよ。
左は、JRなんば駅周辺。路地裏から入る、開発に抵抗し続けた文化遺産的建築物に入居する、リアル昭和レトロカフェ。
右は、道頓堀。かに道楽やドンキホーテのエビス様の裏通りに突如現れる、背の低い軒が連なる石畳の通り。
新しいものが乱立する中でひっそりと残り続ける古いもの。歴史ある、ずっと人々に愛され続ける場所。派手でけばけばしいイメージの大阪も、ちょっと路地に入るとこんな一面を見せてくれる街だったりするのが面白い。僕が、「川と歴史のある街」が好きな理由の一つでもある。
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