シンプルなだけじゃない 柳宗悦「雑器の美」をリアルに実践している器

2008.01.01  

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お茶碗

 3年くらい使ってる粉引の茶碗が、度重なる災難にも絶命することなく、しかし見るに堪えかねる姿を晒し続けていたから、ずっと白いシンプルなお茶碗を探していた。そんな僕の目に、そして今の気分にピタリとはまったのがこの器だった。

お茶碗

 装飾性を全く考えてない素朴なつくり、機械量産品にはない手作りのぬくもり。選んだ理由はキリなく挙げられるけど、なにより気に入ったのは、それは「安い」こと。
 なんやそら! 関西人気質に染まったんかいな?! なんて思われるかもしれないが、いや、実はこの「安い」というのは結構侮れない。

 誰だって自分のつくったものは高く評価してもらいたい。つまり安く売りたいなんて思わない。だからどうすれば高く売れるか一生懸命考える。誰にもできない技術を身につけたり、誰にも真似できない美しさを追求したり。ちょっとでも他と違うものをつくって個性を認められたい。けど、つくっているものが美術品ではなく実用品である限り、それらはほとんど無駄でしかないのではないか。求められる用途にきちんと過不足無く使用できること。これがものの本来にして十分な価値であり、それ以外の「付加価値」を与えるために時間をかけ手間をかけ、その対価として価格が上がってしまっているなら、そこにはまず疑問の目を向けるべきだと思う。
 そもそも、そんなささやかな「欲」は、こうして「手作り」を行う最大のモチベーションになっていることは紛れもない事実で、だから、それを抑えよというのは本末転倒かもしれない。でもだからこそ、その欲を捨て、それでもなお無心に「手作り」を続けようという姿勢に心が惹かれる。


銘
銘らしきものも入ってるけど

 ひとつ自分の中で「変わったな」と思ったのは、以前だったらこういうのを買ったりするときには必ず作家さんの名前を覚えようとしたはずだった。それが今回は考えも及ばなかった。もちろん、手作り市というシステムを考えれば、きっとこれを包んで渡してくれた目の前にいた人がこれをつくった人だったんだろう。けどあえて何も聞かない。聞かなくても十分だったから。

 僕は、この「もの」が気に入ったから買いたい。ものを買うのにそれ以上何が必要だろうか。誰がどんな思いで作ったかなんて関係ない。むしろこれから日常使うのにそんな思いは鬱陶しくなってしまうんじゃないか。逆に他人の思いが全く入っていないから、これから自分の想いをいくらでも託していくことができる。
 誰が作ったのか知らないから、さらに欲しいと思っても買いに行くことができない。けど、それもまた然り。ものとの出会いも、一期一会だっていいじゃないか。縁があればまた会える。あるいは、これと同じものには今後出会うことはないかもしれないが、きっと他にももっと素晴らしい出会いが待っていて、それらが新しい発見の喜びを与えてくれる。一度の出会いに満足してしまったら、そんな新しい出会いのチャンスを閉ざしてしまうことになりかねない。


 日々の用具であるから,稀有のものではなく,いつも巷間に準備される.毀れたるとも更に同じものがそれに代わる.それゆえ生産は多量でありまた廉価である.(・・・)
 反復は熟達の母である.多くの需要は多くの供給を招き,多くの製作は限りなき反復を求める.反復はついに技術を完了の域に誘う.(・・・)技術に完き者は技術の意識を超える.人はここに虚心となり無に帰り,工夫を離れ努力を忘れる.(・・・)幾千幾万.この反復において彼の手は全き自由を勝ち得る.その自由さから生まれ出づる凡ての創造.私は胸を躍らせつつ,その不思議な業を眺める.彼は彼の手に信じ入っているではないか.そこには少しの狐疑だにない.
 作は無慾である.仕えるためであって名を成すためではない.(・・・)慾無きこの心が如何に器の美を浄めているであろう.ほとんど凡ての職工は学もなき人々であった.なぜ出来,何が美を産むのか,これらのことについては知るところがない.伝わりし手法をそのままに承け,惑うこともなく作りまた作る.何の理論があり得よう.まして何の感傷が入り得よう.雑記の美は無心の美である.

 柳宗悦は「雑器の美」(『民芸四十年』に収録)にて、無欲に無名のまま大量につくられる「雑器」が、ついにたどり着いた「美」の本質を鋭く指摘する。無印良品のように、意図的に仕立てられた「シンプル」とは異なる。それは表面的なわかりやすさとは次元の違うもので、現に柳宗悦の提唱した「民芸の美」は一般にはわかりづらく受け入れられにくい。また、自分もものづくりを齧っているからこそ、作る側も、使う側も、その極みへ至る道の険しさが良くわかる。けど、プロダクトデザインが目指すべき道も、きっと雑器のそれと同じであるはず。無欲に、無心に、用を最大限に満たす最小限のものを、より多くの人へ届けるための道だろう。
 自分がこの先精進すべきなのは言うまでもないが、少なくともここへ訪れる人には、自分が思う深い次元の「美」がわかっていただけるような、そんな文章を綴っていきたいと思う。

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