プラダを着た悪魔 (2007年アメリカ) デイビッド・フランケル 監督 / メリル・ストリープ アン・ハサウェイ |
「忙しくて、つい...。私生活も危機だし。」
「仕事が上達するとみんなそうなる。全私生活が崩壊するよ。」
今日もまた、天王寺と心斎橋のデパート、ファッションビルをハシゴしてきたけど、結局何も買わずに帰ってきてしまいました。お金はあるかないかではなくどう使うかを信条にしている自分にとって、例えどんなに安月給だったとしても、服の1枚や2枚がが買えないほど「貧乏性」になってしまっているとしたら、それはもはや病気としか考えられない。で、その病気の原因は何か考えてみたら、一番には、今、これから先、どういう「スタイル」になりたいのか、なるべきなのかが見えていないからだ気づきました。
ここでいう「スタイル」とは、単に服の好みの問題ではありません。一言でいえば、それは「生き方」のようなもの。今、自分はどういう立場にいるのか。人からどう見られるべきなのか。これから先、自分はどんな人間になりたいのか。自分の信条は何なのか。それを人に伝えるために自分は何をしなければならないのか。ファッションというのは、それを外に向かって表現する1つの手段であり、また、そうでなければいけないものだと思います。だから、スタイルが変化すれば必ず選ぶ服も変化するはずです。
それなのに、それに抗っているということは、そのスタイルの変化を自分自身が認めていない証なんじゃないかと、そんなことに気がついたんですよ。
似合ってないのがわかっているのに、無理して素材感や芸術性の高いブランドを選んだり、そんなチグハグなワードローブから何でもないふつうっぽい格好にコーディネートすることを自分なりのクリエイションと思っていたこと。キャラクターブランドのわかりやすさ、マネキンそのまま選べば誰でも簡単に「オシャレ」に見える、つまりそんなコーディネートはやろうと思えばいつでもできるからしないと決めてかかっていたこと。でも、それって本当にそうなのか?
仕事が変わった。生活も変わった。仕事は上達してなくても、私生活は既に崩壊している。今のところ護るべきものがほとんどない自分には、それに抗う理由はない。とすれば、スタイルの変化の帰結として、当然、選ぶ服だって変わってもいいかもしれない。
「スタイル」を正しく「表現」すること。そのスキルが一般的にいう「センス」であり、職能としての「デザイン」だと思います。それを正しく学んできたと思うなら、それを証明するために、全力でそれを実践してみよう。そんなことを思わせてくれる、テンション上がりまくりな映画でした。
ちなみに、服は買えなくてもこんなのは買ってきたりする。
よっしゃー。明日はサンドイッチ大会だー!
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