「マリーアントワネット」で読み解く 帝国ホテルとデザイントレンド

2007.07.21  

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『マリーアントワネット』(2007年アメリカ) マリーアントワネット (2007年アメリカ)
ソフィア・コッポラ 監督 / キルスティン・ダンスト

 夏本番の合図。学生たちに青春を謳歌する自由を告げる鐘となる「海の日」は、「豪華食事付き高級ホテル一泊ツアー」という仮面を被った全社会議と翌日の棚卸しのために、大阪帝国ホテルに軟禁されていました。

 今まで貧乏ながらも最大限に衣食住の充実のために、メディアからの情報だけでなく、五感を駆使して情報を取り入れてきた努力の成果があったのか、確かに、例えば中学校修学旅行の品川プリンスホテル、高専研修旅行のロイトン札幌などにおいての「うまー」というそれとは幾分か高い見地から、その尋常ならざる料理や内外装の超現実的クオリティに度肝を何度も抜かされたりしたわけだけど、それでもあえて(一銭も金を出してない立場を全部棚に上げて)正直なところを言わせてもらうと、なんだ、この程度なのかと。やはり支払った金額にある一定の上限がある以上、それ以上のサービスは望むべくもない。逆に言えば、まだまだこの程度じゃ済まされない、僕たち庶民にはどんなチート(=ずる、掟破り)をしても体験できないゴージャスな世界がきっとどこかに存在するはずだという確信を覚える貴重な体験でした。

 この手の映画は「18世紀の中世ヨーロッパにおける世界最高のゴージャス生活を再現した」と考えられがちだけど、この映画に限ってはその意味はまったく違っていて、「(18世紀のスタイルに変換した)現代におけるゴージャスな世界のドキュメンタリー」なんだと思います。
 ベルサイユ宮殿という建築そのものは当時の絢爛豪華さを継承しているけど、その内装を維持している財力を含め、この映画の中に映っている、役者たちの前に揃えられたゴージャスな服や家具や料理の数々を作っているのは、紛れもなく現代に生きる専門家たちであり、それを(今回に限ってその目的は映画撮影のためであったとしても)、注文し消費しているのもまた紛れもなく現代に生きる「特権階級」の人間だという事実。面白いのは、この映画は「現代の現実の世界で、過去や未来の非現実の世界を創り出す」という映画が本質的に抱える暗黙了解の矛盾を、一切隠そうとせずむしろ積極的にさらけ出しているところにあると思います。それが、例えばコンバースオールスターに象徴されていたりする。

 日本でも明治維新以来身分階級制度はなくなった、市民はみな平等だと教えられてきたけど、いや、現代にも確実に階級は存在しているんだなと言うのがここ最近の実感で、そんなん平等になったのは「機会」であって「身分」や「経済力」じゃないんだから当たり前だとか、頑張れば(あるいは才能や運に恵まれていれば)キミにだってなれるんだから努力すればいいとか、そんなんなりたくないって言うかこっちから願い下げっていうか実はこっそり狙ってますけどとか、その手の話は一切無視し続けたとしても、今後必ずぶち当たる壁の1つではあるんでしょうね。
 最近のデザイントレンドはゴージャス指向で、かつてのアーツアンドクラフト運動で失敗した「工芸的装飾品の大衆化」への再挑戦だともてはやされているけど、現代においても本当のゴージャスは中世のそれとほとんど変わっていなくて、結局それは量産化、大衆化不可能な、一部の特権階級のための品として存在し続ける。だから量産化されたゴージャスっぽいそれは、その後のモダニズムという賢い選択の波に抗って、諦めずに努力した結果安っぽさしか残せなかった如何物の数々と本質的な違いは無いのかもしれません。ゴージャスなデザインとは庶民の叶わぬ夢の代替品でしかないのか。

 マリーアントワネットのドレス1着分で、当時の農民何人くらいが飢えを回避できたのか。量産化不可能なゴージャスでは特権階級の心しか満たせません。あるいは量産化可能になった新世紀のゴージャスは大衆の心を救うんでしょうか。どちらを見習うべきなのか、どちらを目指すべきなのか。まだその答えは見つからないままです。

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