2007.07.08  

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劇団維新派公演『nostalsia』 維新派 『nostalsia』

 何が何なのかさっぱりわからない。でもその何だかわからないものを、何らかの確信をもって多くの人(スタッフやパフォーマー)の心を動かし、舞台という表現として完成させ、さらに多くの人(観客)の感動と共感を呼び起こしているという事実。そして何より、そんなわからないものに、理由もわからず興味を示している自分。そんな謎だらけの世界を少しでも明らかにするための、これは1つの実験だったのかもしれない。

 彼らのことを知ったのは高山での生活中。珍しく深夜にダラダラとテレビのチャンネルを手繰っていたときに映ったその舞台に、一瞬にして釘付けになった。

 舞台.だけど,これは演劇か? ダンスか? セットにはコンクリートジャングルをイメージさせる巨大な灰色の箱を並べ,全員が薄汚れた地味な服を纏い素肌を白く塗りつぶし,おもちゃの飛行機や自動車をつけた帽子を被って,舞台の上を規則正しく一糸乱れぬ動作を繰り返す.ミニマムなループサウンドに,かろうじて単語と認識できる程度のかけ声のような合唱を乗せている.
 何なんだ?! 全く意味がわからない.こんな圧倒的なスケールと統率力で極めて抽象的で抑圧された表現を行う,その意図やモチベーションが理解の範疇を軽く越えたという意味で,全く意味がわからない.

 後で知ったのだが、それは「維新派」という劇団の「ナツノトビラ」という公演だった。大阪の梅田芸術劇場で公演され、NHKの芸術劇場にて放送されていたのをたまたま目撃したらしい。公式サイトに謳われる「喋らない台詞,踊らない踊り,歌わない音楽」というコンセプトを聞いて強く納得すると共に、また大きな疑問が発生する。それら舞台にとって命とも言える要素を全部抜き去って、なんでそこになお「舞台表現」が可能になるんだろうか、と。

 そんな舞台を現実に体験し、そこに何を見たのかというと、これがまたさっぱりわからない。わからなかったけど、自分の心には、確かに何か大きく渦巻くものが発生し、後に大きな何かを残していった。それは一言で表すならば、きっと「生きていくための力」みたいなものだと思う。南米を舞台とした、20世紀史を主題に掲げたそれは必然的に、理不尽な社会を生き抜くための意志で満たされ、理解を超え、理性が破壊された頭の中に強引にねじ込まれる。戦争を体験によっては知らないし、今後も知ることはないと信じるが、現実に戦争を体験するのと、何らかの別の手段でそれを伝えられるのとを、区別する手段を僕は持たない。人の持つコミュニケーションが、ある人が別の人にその人の体験を伝える術だとするならば、言葉でも、ニュース映像でも伝えられない何かを、「芸術」というコミュニケーションが担う可能性を秘めていて、今回はその可能性の一端を目の当たりにしたのかもしれない。

 中学生から習う英語だけでなく、生まれてから自然と覚える日本語だって、最初はまったく聞き取れないししゃべれない。コミュニケーションとしての芸術は、同様に最初は何も聞き取れない。今はきっと、耳そばで怒鳴られて泣き叫ぶ子供と状況は同じ。問題は何を怒っているのかきちんと聞き取り判断できるようになることだと思う。
 今はわからない。わからないからこそ、この先も必死に耳に入れて、何を伝えようとしているのか、そもそも「舞台」、あるいは「芸術」というメディアとは何なのか、判断できるようになろうと思う。

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