2006.05.04  

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『カナリア』(2005年日本) カナリア (2005年日本)
塩田明彦 監督 / 石田法嗣 谷村美月

 無差別テロを起こしたカルト教団から保護され児童相談所へ送られた子ども達.始めは反抗的だった彼らもみな時と共に次第になじんでいく中でただ1人抵抗を続けた少年は,祖父の元へ1人引き取られていった妹を取り戻すために,相談所を脱走した.95年にサリン事件を起こしたオウム真理教とそこで生きた子どもを題材にしたフィクション.

 例えば漫画などに描かれる中学生くらいの子ども達.当時同じくらいの年齢だったときに,その姿はあまりにも幼すぎるのではないかと思っていた.
 けど,この映画に描かれている彼らは,やはりとてもリアルに幼かった.大人の視点という演出があえてそのように動かしている,と言うわけではない.なにしろ演じている彼らは実際に14,5歳の少年少女だ.力の限り生きようとしている.時には大人にだって負けない意志の強さをみせることもある.にも関わらず,大人から見放され,独りでは生きていくことのできない社会の中では,彼らのその身体はあまりにも小さすぎた.

 今でさえ,自分はその中学生当時と比較してそれほど成長(あるいは単に変化)しているとは思えない.けど,現実に彼らのような存在に対峙したとき,やはり自分はその肉体年齢なりに,自動的に流れてきた時の長さなりに,自分でも気づかないくらい少しずつでも総量としてはそれなりに成長していることに気づかされ,だから自分も精一杯生きているつもりでも彼らにおける精一杯とは必要とされる力に大きな違いがあることを思い出し,意志が強くとも現実に生きる力が不足している存在に対しては,積極的に力を貸していくべきなのではないのかと,そんなことを思った.


 「言葉にできへん理由なんて,無いと同じとちゃうんか?!」

 本筋と関係ないけど,印象に残った言葉.理由,理論,理性.そういった左脳的表現系はすべて言葉や数式に還元することができるという必要十分条件には概ね賛同するけど,言葉にできない=理由がない何か(行動,情動など)が存在するのも,人間が100%理性的な存在でないから,確かなことなんだと思う.
 ただ,言葉以外の表現手段が多様に存在するのは,言葉では表現できないからなのか(言葉の機能的限界),言葉では単に遠回りだからなのか(遠回りすれば結局言葉で100%表現できる),すべての事象に対し後者が当てはまるとしたら結局すべての事象には理由が必ず存在することになるのかは,いまいち良くわからない.

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