2005.02.23  

このエントリーをはてなブックマークに追加  

本多孝好『ALONE TOGETHER』

 脳ミソの入力バルブが解放された状態.毎晩,遠足前夜の子供のように興奮して寝付けない.入力された情報は,そのイメージが頭の中にいつまでも渦巻き,でも具体的な何かを何も形成しない.いつも通りの何気ない日常の風景が,突然,その存在意義を主張し始める.目に映る全ての存在を許すことができ,また許されているような気がする.今,ここでぱったり死んだとしても,きっと笑顔で人生の幕を下ろすことが出来る.僕は今この瞬間,すごく幸福に満ちあふれているんだと実感することができる.
 これが「躁」の自覚症状.クスリをキメてる訳でもなく,酒を飲んでる訳でもないのにこの状態.いつも何か具体的な誘発原因がある訳ではないが,今回のそれは,最近,本多孝好にすっかり嵌りまくっているのと,たぶん無関係じゃない.

 例えば,付き合っているパートナーが,あるいは自分が,予期せず妊娠したらどうするだろう.決断を迫られる.産むか.堕ろすか.そう,それは悪魔的なまでに絶対的な「二者択一」である.
 しかし,人の感情,思考は往々にしてそのどちらかの選択肢を100%信じることができない.なぜなら,人の頭の中にはいろんな感情,思考が「同時に」存在するから.期待と不安,後悔と安堵,理想と現実.
 ならば,時限が過ぎ,一方の選択が完了したときに,もう一方を選択しようとした感情や思考,つまり現実とは相容れなくなった「自分でない自分」は一体どこへ行くのだろう.そんなもの最初から無かったことにする.嘘という名のコンクリで固めて深層意識の海の底へ沈める.人はいつもそうやって「自分でない自分」と折り合いを付けながら前に進んでいく.しかし「自分でない自分」も,紛れもなく自分の一部だ.それを消し去ることは,自分の一部を失うことを意味する.そして,切り捨てられた自分の一部は,心の奥底へ沈んでいき,消化されることなく屍の山を形成する.本多孝好はそれを「澱(おり)」と呼ぶ.
 この物語は,特別に感受性の高い主人公(超能力と考える必要はないと思う)が,人々の中にずしりと溜まったそうした「澱」を残らずかき出し,当人の前にさらけ出していく.崩壊寸前だった自己の前に暴露された,醜く腐敗した澱.人々は,澱が取り除かれたことに救いを感じるのか.あるいは...

 結局,自分と他人を結ぶインターフェースはあまりにも未熟だし,自分という存在すらも拡散し続ける不確定な存在で,だから人は人を本当に理解することなんてできないけど,でも所詮そういうものなんだからそれでいいんだと思う.自分と他人との間のか細いネットワークこそが,この社会の中で一番大切な「存在」なのだから.

 なお,感受性の高い人は人間不信になる怖れがあるので読まない方が良いと思います.

SHARE THIS ARTICLE

  • ブログランキング・にほんブログ村へ

COMMENT AND SHARE

COMMENT

POST A COMMENT

TRACKBACK PINGS

TRACKBACK URL:

http://www.k-en.net/blog3/mt-tb.cgi/4